弥彦の歴史に関する伝説

イラスト 矢立神社旧跡(やたてじんじゃきゅうせき)
 彌彦神社外苑弥彦公園の丘陵に御殿山(ごてんやま)と呼ばれる小高い頂きがあります。ここは昔「矢立山」といわれ、頂上に矢立神社があったと伝わります。
 彌彦神社の御祭神天香山命が、三島郡野積浜に上陸され、猿ヶ馬場峠を越え、桜井の里にしばらく休息されて後に、弥彦の里に入られ、最初に宮居を定められた旧跡であると伝えられています。
 一説に、昔はこの山を夷山(えびすやま)と呼んだとも言われますが、それは観応年間(1350〜1351)に夷人が彌彦神領に来襲した折、一夜のうちにこの山を占領して城を築き上げたためだといわれています。
 ときに、彌彦神社の神官一同は神領民と力を合わせ、この夷人を討伐し、追い払いましたが、この戦にあたって神官の射放った矢が山の頂上に立った所に夷人討伐の記念として社を建てて彌彦大神を祀ったのが矢立神社・矢立明神であるといわれますが、今は昔の面影もありません。
 現在の弥彦地内、矢楯・矢立と呼ばれる地名のおこりでしょうか。
 この夷人来襲にあたって戦利品として奪った大刀が、現在彌彦神社に宝物として陳列されている「夷太刀」−大陸式直刀−でしょうか。
 また、井田丘陵にある蝦夷塚(えぞづか)の岩屋と言われる地域は、このとき来襲した夷人を葬った墓地の旧跡であると伝わっていますが、楊子潟(ようじがた)埋立工事の際削り取られ、現在はほとんど跡をとどめていません。


イラスト 黒鳥兵衛の乱とカンジキ(くろとりひょうえのらんとかんじき)
 彌彦神社の東方に「森林浴の森100選」に選ばれた城山森林公園があり、散策など憩いの場として親しまれています。
 その昔は、春から秋にかけて桔梗(ききょう)の花が咲き乱れていたという史跡「桔梗城」址は、現在は、空堀(からぼり)・館址(たちあと)などの形跡が残るのみです。
 古伝によれば、後冷泉天皇の御代、天喜年間(1055)に源氏の一族源頼光の部下であった吉川宗方(きちかわむねかた)という武士が、都からはるばる弥彦の里に移り、桔梗ヶ嶽の頂に初めて城を築き、桔梗城と名付けたといいます。
 桔梗城からそう遠くない蒲原郡黒埼村(現・西蒲原郡黒埼町)の的場山に砦を築き、領民たちも多くの被害を受けていた凶賊がいました。次々と悪い仲間を集め、自らも不思議な妖術を使って、一帯を荒らし廻り、彌彦神社神領もしばしば侵されました。その名を黒鳥兵衛詮任(くろとりひょうえあきとう)といい、奥州・安倍貞任(あべさだとう)の一族で、前九年の役(1051‐1062)で、源頼義・義家父子に敗れ、越後に落ちのびてきたといわれます。
 この訴えを聞いた源頼義はさっそく、黒鳥兵衛討伐を決意し、当時、勅勘を受けて佐渡島に流罪となっていた次男の加茂次郎義綱(かもじろうよしつな)を呼び戻し、討手の大将に命じました。
 義綱は勇躍して佐渡より弥彦に移り、桔梗城主吉川宗方と作戦を練り、都から駆けつけた家臣の他、近隣の豪族に檄を飛ばして討伐軍を組織し、的場山の黒鳥軍との戦いの火ぶたが切られました。時に康平6年(1062)冬のことでした。
 だが、戦いは、降り積もった雪や兵衛の妖術に手こずり、一進一退を続けました。特に1メートルを超す深い雪は最大の障害になりました。
 さすがに寄せ手の加茂次郎義綱、吉川宗方の軍勢も攻めあぐんでいました。そんなとき、とある大雪の降った朝、広い雪原の上に、霊峰弥彦山の方角から飛んできた数羽の白鳥が、それぞれ嘴についばんできた枯れ枝をポトリ、ポトリと雪の上に落とすや、静かに舞い降りてその枯れ枝の上に止まって羽を休ませました。
 じっとこれを見ていた義綱、宗方の二人は互いに顔を見合わせるや、はたと膝をたたきました。二人は相談して、さっそく部下たちを呼び寄せ、密かにあることを命じました。待つこと数刻、武士たちはそれぞれ手に手に妙な道具を持って集まってきました。
 それぞれが手にしたのは、しなやかな竹や木の枝を手際よく折り曲げ、縄をくくりつけた異様なものでした。一同は、この品を次々と自分の足に取り付けて、そろりそろりと降り積もった雪の上を歩いてみると、実に具合よく雪に埋れずに雪原の上を行動できるではありませんか。
 まさしく、これこそ彼の白鳥に託した彌彦大明神のご託宣なり、と喜び勇んだ寄せ手の一同は、密かに日暮れを待って、義綱・宗方自らを先頭に、砦近くまでしのび寄り、一挙に攻め込みました。中でも、討手の大将加茂次郎義綱は自ら大太刀を振りかざして黒鳥兵衛目指して進みより、互いに激しく太刀を合わせて戦い、ついに兵衛の首をはねました。
 そのとたん、天地にわかに鳴動して、黒鳥兵衛の首は天高く飛び上がり、口から火炎を吐き出しつつ、義綱の頭上めがけて、形相すさまじく飛びかからんとしましたが、間一髪、見るよりも早く飛んできた白鳥が羽音も高く兵衛の首に襲いかかり、鋭い嘴でつつき、たちまち地上に叩き落しました。
 ここにおいて、さしもの黒鳥兵衛の妖術も敗れ去り、討伐は大勝利を収めたのでした。
 かくて、義綱は兵衛の首と胴体を別々の石びつに入れて、土中深く埋没し、その上に一社を建立して永久に兵衛の妖術を封じ込めました。
 現在の黒埼町緒立八幡宮がこの神社であると伝わっています。
 義綱たちが使ったこの道具は「カンジキ」で、越後地方での発祥といわれています。年々雪も少なくなり、除雪機の普及で弥彦周辺では「カンジキ」を履く人もほとんど見られなくなりましたが、山間地や豪雪地帯では、今も使用されています。


イラスト 親鸞聖人刻み分け伝説(しんらんしょうにんきざみわけでんせつ)
 林部市左衛門は、滞在中の聖人に朝夕給仕する間に化導を受けて熱心な信徒となり、お別れした後も東国や都へ折りにふれて馳せ参じて教えを受けました。寛元3年(1245)聖人73歳の折に、何回目かの上京した時、布教のため再び弥彦へ下向されるようお願いしましたが、すでに高齢でかなわぬから形見にといって、自ら自像を刻んで与えられました。市左衛門は感喜して持ち帰り、同志にも披露して、一同久々で聖人にお目にかかった気持ちになって信心を固くしました。
 その後、神社の周辺で仏の教えがはばかれるような世になったとき、紙に包んで天井につるしたままで年を経ました。
 明治初年に縁あって岩室村石瀬の浄泉寺(じょうせんじ)に迎えられ、現在は同寺でていねいに朝夕のお給仕をされています。
 また、弥彦界隈には、社参に訪れた親鸞が、祈願成就のため自己の木像を彫り、半体まで制作しかけたところに、伊夜比古の神の化身の老人が現れ、親鸞の話を聞いて、祈願が叶うよう、もう半体を制作されたという伝説があります。
 また、社参祈願の成就に感謝して聖人自ら自身の像を彫られたという伝説も伝わっています。
※三条市安楽寺所蔵の親鸞像
 もと彌彦神社神主高橋家の小堂に安置されていたもので、文政9年(1826)に浄土真宗仏光寺派本山への寄付という形式で、「聖人清水」脇に移され、その後文政11年(1828)から天保11年(1840)10月まで矢作(やはぎ)の法円寺に保管、同月安楽寺に移されたものです。容姿・袈裟・手の位置とも通常の親鸞像と大きく異なり、その独特の雰囲気は作成の事情を物語っています。
※弥彦村宝光院所蔵の親鸞像
 もとは神宮寺阿弥陀堂内にあったものが、廃仏時に本地仏とともに焼却命令の対象となっていましたが、焼却命令がいったん中止され、出雲崎役所へ一時預けされた後、本地仏とともに移動し、再建された宝光院阿弥陀堂に戻ったものであるといわれます。両手は数珠を持った形状をしていますが、数珠はすでにありません。
※岩室村菅井キヨ宅所蔵親鸞像
 もと真言院(護摩堂)に安置されていたものであり、明治元年(1868)菅井家にうつったものです。同家には、
 −御一新のことのある晩、甘露(菅井家の主人)は夢をみた。枕元に親鸞聖人が立って、「私は弥彦の親鸞だが、御一新のため燃やされようとしている、助けてほしい。」と訴える夢だった。驚いて跳び起き、弥彦へ駆けつけたところ、いままさに聖人の御木像が火に投ぜられようとしているところだった。甘露が焼却だけはやめてほしいと必死に嘆願した結果、夢告(ゆめつげ)に免じて貰い受けることができた。−
 という口伝があります。
※吉田町溝古新清伝寺(みぞこしんせいでんじ)所蔵親鸞像
 廃寺の時点まで弥彦にあったものを救い出したという伝説があります。


つばきつばきつばき 親鸞聖人手植えの椿(しんらんしょうにんてうえのつばき)
 弥彦で林部四郎左衛門家に立ち寄った聖人は、四郎左衛門の弟林部市右衛門方にしばらくの間、杖をとどめて教えを説いていました。市右衛門家は後に助右衛門、七右衛門とも言われたそうです。
 当時、愛用の椿の杖を聖人自ら同家の裏庭に植えたものが、成長して枝下3間の大樹となりましたが、天保の大火で焼け、現存するものはその2代目です。明治時代までは巡拝の信徒が、よくその葉をいただいていったといいます。
  住む宿の 栄うためしを 玉椿
    八千代経ぬとも 春秋の色
         浪花の人たけよし記す
                (林部家所蔵)


イラスト 観音寺温泉と侠客観音寺久左衛門物語
(かんのんじおんせんときょうかくかんのんじきゅうざえもんものがたり)
 弥彦から北国街道を上赤坂・矢楯と行くと続いて観音寺温泉があります。
 遠く千年の昔、弥彦に住む狩人権九郎によって集落の前方熊ヶ谷の丘陵に霊泉が発見されました。更に200余年さがって堀川天皇の御代応徳元年(1084)に、観音寺集落にも湯脈の連なりが発見されるに至ってにわかに栄え、永く彌彦神社の神領として続いてきました。
 また、伝説として語り伝えられるところでは、源頼義の次男加茂次郎義綱が弥彦庄司吉川宗方と共に黒鳥兵衛を討伐した際、戦に傷ついた武士たちがこの観音寺温泉で治療して傷をなおしたといいます。
 この観音寺に住居して、往年北国第一の侠客と謳われた松宮雄二郎直秀こと、俗称観音寺久左衛門の事蹟も今日では遠い昔話になってしまいました。
 松宮家がいつごろからこの地に住んでいたのかよくわかりませんが、伝説では、遠く江戸時代の初期、関東地方のさる高名の武士がこの観音寺に落人として逃れ住み、たまたま時の上杉管領より十万石の格式で家臣になるよう要請されましたが、これを断り、それではせめてもと管領家より槍一筋と陣笠1ヶ・陣羽織1着・人々の祝い事ある時の酒宴用の盃1ヶを拝領したと伝わります。
 当主は代々久左衛門と名乗り、集落の民はもとより近郷近在の信望厚く、時代時代の当主久左衛門はそれぞれに侠気があり、その侠名は全国に広がり、「江戸で長兵衛、北国で久左衛門」と並び称され逸話もまた多かったといわれます。
 江戸の大相撲、雷電為右衛門が越後地方巡業の年、あいにくと水害のため不作で嘆き悲しむ農民相手に相撲興行も打つことができずに困っていた時、当時の当主久左衛門はポンと胸をたたいて一行数十人の力士を世話したそうです。かつまた、半年も興業に力を貸して広く近隣の農民を招待して喜ばせ、雷電為右衛門一行を無事に江戸へ送り帰したといわれます。
 幕末における松宮家最後の当主松宮雄二郎直秀は、当時有名だった上州の侠客大前田英五郎(おおまえだえいごろう)、国定忠治(くにさだちゅうじ)とも親交があり、彼らも時には久左衛門宅へワラジを脱いだと言われます。また、万延元年(1860)桜田門の変で大老井伊直弼を誅した水戸浪士2名が越後へ逃れ、久左衛門の庇護を受けたと伝わっています。
 明治の御維新に際し、久左衛門は長岡藩の英雄河合継之介(かわいつぎのすけ)と密約を結び、会津征討の官軍を島崎村(現・三島郡和島村島崎)に迎え撃った時は、猩々緋(しょうじょうひ)の陣羽織を着用し、頭に陣笠をいただき、数多の子分を引き連れて戦い、その勇猛ぶりは官軍方を驚かせたといわれます。
 長岡藩の恭順によって戦闘も不利となり、久左衛門はついに米沢の上杉藩へ落ち延び、明治6年(1873)6月10日、68歳で病死したといいます。
 官軍方は、観音寺集落に進軍するや、松宮の一族を始め主だった子分の家をことごとく焼き打ちにかけ、罰したといわれ、この火災により松宮家の主な文献、建物その他一切が失われてしまいました。
 今、松宮家の広大な邸跡は集落の中央を走る村道(旧県道)の山手に面した北越農事の園芸地として残っています。
 最後に、代々の当主観音寺久左衛門の逸話として語り伝えられている数々を記します。
1.大事が起きた時は、久左衛門の廻状一本でたちどころに千人を超す屈強な子分が近隣近在から駆けつけた。
2.久左衛門は観音寺集落に生活している時は絶対に絹物を身につけなかった。
3.仲裁事や掛け合い事に出かける時は、絶対に刀は持参せず、子分を一人も連れて行かなかった。
4.毎年年の暮れになると、村中の生活に困っている家々をこっそりと廻り、人知れず障子の破れから1分、2分の金を恵んで歩いた。


イラスト 種満堂の一本杉と蛇崩(しゅまんどうのいっぽんすぎとじゃくずれ)
 大字麓から大字村山に通じる県道のかたわらに、やや小高く盛り上がった塚があり、ここに頭の部分を折られた老杉が一本あります。
 伝説によると、昔はこの付近一帯は沼であり、その中に小さな鳥喰島(浮島)があって、ひとつの神明様を祀るお堂があったことから、島堂と呼ばれていたそうですが、いつか訛って「しまんどう」といわれるようになったといいます。
 その少し西に一本の大杉がありました。
 また、一説には、このお堂に鳥を喰わぬという誓いをたてて祈願を込めると、俗にいう脚気、種満がなおるといわれたところから、村人たちに「種満堂」と呼ばれるようになったといいます。
 昔からこの付近一帯に、石斧や矢の根石(石鏃)などが発掘され、俗に「天狗のめしがい」と呼ばれる石鏃に似て、ちょっと形の異なった石片類が出たとのことです。
 この「天狗のめしがい」といわれる石片が国上山蛇崩(じゃくずれ)の天狗の伝説につながっています。
 蛇崩といわれるのは、国上山の頂上の一角、北側半分がほとんど全部崩れて険しい場所です。昔の人は、この場所は人工や自然現象で崩れたものではなく、大昔この地に棲んでいた大蛇が尾を振って崩したのだと語り伝えています。
 この蛇崩の国上山には天狗(山神)がたくさん住んでいて、毎年3月9日の朝5ッ時(午前8時)天狗一同が蛇崩に集まり、水晶石で作られた魔よけの矢の根石を次々に種満堂の一本杉を的に定めて射放ったといわれます。
 いつのころか、麓のお百姓さんが「山の神さんが矢を射放つなどとは嘘だ」といって、3月9日の朝、いつものように鍬(くわ)をかついで種満堂の畑に行きました。仕事をしていて、突然ビューンとうなる大きな物音が蛇崩の方からしてきたと思った瞬間、ちょうど振り上げた鍬の柄にガチリと矢の根石が突き立ったので、何もかも放り出して命からがら逃げ帰ったといいます。


イラスト 酒呑童子(しゅてんどうじ)
 弥彦山周辺の伝説のなかで代表的なものの一つが、この酒呑童子の物語です。
 童子の生まれ故郷は、蒲原郡砂子塚(現・西蒲原郡分水町砂子塚)だといわれています。
 童子が生まれたのは、天暦2年(948)です。名を外道丸といい、両親は貴族の血筋を引く上方の人のようでした。幼少のころから大変な暴れん坊で、10歳ころになると、生まれつきの美男ぶりはますます光を増し、体つきもたくましくなり、知恵も腕力もすぐれていましたが、乱暴ぶりにも輪がかかりました。両親はひどく心配し、霊場で名高い国上寺に稚児として差し出し、仏の道や学問の教えによって修行させることに決めました。
 国上寺は和銅2年(709)、彌彦大神の神託によって建立された越後最古の名刹です。稚児は神社の祭礼の際、給仕に使われる少年で、神楽も舞います。童子は寺へ上がると、乱暴をピタリとやめ、熱心に仏の道と学問に励むようになりましたが、何分にもまれにみる美男子とあって、その稚児ぶりは越後中に広まりました。
 稚児たちが彌彦神社へ通う道を「稚児の道(稚児道)」と呼ぶが、その道すがら振り袖姿の童子のたもとには、たくさんの娘たちから恋文が投げ入れられ、一目見たいと国上寺へ日参する娘たちの数は増えるばかりであったそうです。しかし、童子はこのような騒ぎに一切目もくれず、ただ一筋に仏の道と学問にいそしんでいました。
 その童子が16歳に達したころから奇妙な風聞がたちました。近郷の若い娘たちが原因不明の病気で次々死に、いつしかそれは、童子に恋い焦がれた娘たちがかなわぬ思いに悩んだあげくの狂い死にではないかというのです。
 娘心の執念の恐ろしさを聞いた童子は、ある日密かに、これまで開封せずに行李に投げ込んだまま、一杯になっていた恋文を焼き捨ててしまおうと、行李のふたをあけました。その瞬間、モウモウと噴き出した異様な煙とともに、美しい童子の顔は見るも無惨な鬼の形相と化し、飛鳥のごとく、信州・戸隠の方向へ飛び去ったということです。
 国上寺の近くには、寺を追われた童子が岩屋に隠れ住んだという場所が残っています。
 また、後日談になりますが、童子は長岡の森立峠(もったてとうげ)で茨木童子らを家来にし、盗賊の首領になりました。最後は丹波国大江山の岩屋に住みつき、京都の都を荒らし回りましたが、これを時の帝の命を受けて、山伏姿に変装した源頼光とその部下、渡辺綱、坂田金時など四天王が退治したという伝説は有名です。
 童子がかつて彌彦神社まで通った「稚児道」は国上寺から神社まで約4キロメートルあります。一部崩壊した部分もありますが、ほぼ、原形をいまに残しています。また、国上寺には「酒呑童子絵巻物」や、童子が使ったという朱塗りの「大盃」が寺宝として保存されています。


イラスト 玄翁和尚と「げんのう」(げんのうおしょうと「げんのう」)
 大字矢作に慈眼寺(じげんじ)という寺があり、ここの本堂に同寺開創者といわれる玄翁和尚自作の「枳尼天像(だきにてんぞう)」が安置されています。
 この玄翁和尚は姓を源、名は心照といい、矢作の出身です。母は麓の観音寺本尊正観世音に祈願をこめて嘉暦元年(1326)に出生したといわれます。
 その出生の因縁で、5歳の時から国上寺へ上がって修行を積み、真言密教の哲理を学び、19の歳相模国(今の神奈川県)総持寺(そうじじ)に移りました。当時名僧智識といわれた峨山紹碩(がざんじょうせき)の仏弟子となって熱心に修行し、ついに禅師のあとを嗣いで総持寺住職となり、数多くの仏弟子の中よりたくさんの名僧を育成しました。
 後に、伯耆国(鳥取県)の名刹退休寺(たいきゅうじ)の開基となり、下総国(千葉県)の名刹安穏寺(あんのんじ)、会津(福島県)の名刹慶徳寺(けいとくじ)、また、下野国(栃木県)の名刹泉渓寺(せんけいじ)などを創設しました。
 修行中に父祖菩提のため矢作村に帰り、文和2年(1353)慈眼寺を建てましたが、応永3年(1396)71歳で大往生したと伝えられています。
 この玄翁和尚の那須野ヶ原殺生石退治の伝説は、謡、能の「殺生石」でよく知られています。
 殺生石の伝説をお話します。
 昔、宮中で時の帝を弑逆しようとした玉藻前(たまものまえ)という女官(実は中国から飛来した金毛九尾の狐)が、悪事が発覚して都から逃れ、那須野ヶ原で殺生石に化け、付近を通る旅人や動物、石の上を飛ぶ鳥などを妖気で殺し、人々から恐れられていました。当時、泉渓寺住職であった玄翁和尚がその話を聞いて、早速殺生石のそばへ近づき、手にした鉄槌で粉々に打ち砕いて供養し、その狐の害を取り除いたといいます。
 今日の、大工職人が使う金槌・鉄槌のことを俗に「げんのう(玄翁)」というのは、この玄翁和尚が殺生石退治に鉄槌で打ち砕いたところから、名前が由来したと伝えられています。


イラスト 亀が茶屋と藤が茶屋(かめがちゃやとふじがちゃや)
 猿ヶ馬場には2軒茶屋がありました。
 麓の「一之坂」から猿ヶ馬場の峠を登りきった所の茶屋が「藤が茶屋」、峠の平から道を少し歩いて、海の見えるところの茶屋が「亀が茶屋」、この2軒です。
 いずれも江戸時代の建物で、北国街道の往来が盛んだった時代がしのばれました。
 麓から登る人も、野積から来る人も、この峠の茶屋で一息入れたとのことです。上り框が長く、土間には床几、柱には草履がかけてあり、藤が茶屋は猿ヶ馬場鉱泉場とも名付けられ、癒病のために逗留する人も多くありましたが、2軒とも大正のころなくなってしまいました。


イラスト 林照堂鎌鍛冶(りんしょうどうかまかじ)
 麓一区の武石嘉十郎は明治の初年水沢流鎌鍛冶の名人で、近郷に名を馳せた人でした。弟子の若者が製品をかついで地蔵堂町(じぞうどうまち)の市日に鎌の店を開きますと、大勢の客が集まって、鎌は全部売りきれてしまうそうです。日によっては客は先に待っているくらいでした。
 あるとき、弟子が嘉十郎師匠に尋ねました。
 「地蔵堂町の市日に鍛冶屋を出しますと、客人たちはほかの金物に目もくれず、うちの鎌を買ってくれますのですぐ売れきれてしまいますが、どういう訳なんでしょう。」
 と申しますと、師匠は、
 「それはそれに違いないのだ。俺が毎日槌を振って鎌を打つのに、どうすればよく切れるか、どうやれば使いやすいか、どうすれば値段を安くできるか、いつもその点に性根を込めて苦心しているからだ。」
 と答えたということです。
 吉田の文平鍛冶屋さん、富永の鍛冶屋さんなども、ともに林照堂の教えを受けた人たちだといわれています。


イラスト 村山の開基 川井彦左衛門のこと(むらやまのかいき かわいひこざえもんのこと)
 村山の集落を開発された人は、川井彦左衛門といい、その三百年祭りが昭和41年3月24日の祥月命日に村をあげて盛大に行われました。
 この川井彦左衛門とはどういう人物か、また、当時の村山地域の状況を述べてみたいと思います。
 父は、矢部左馬亮(やべさまのすけ)と名乗り、江州(近江国、現・滋賀県)浅井・高島二郡を領し、7万石の城主でありましたが、大阪落城で浪々の身となり、当時渡部(現・分水町渡部)城主柴田佐渡守と従兄弟でしたので、ここに身を寄せ、やがて城主の嫡女お郷子(さと)を妻にもらい沢蔵人(さわくらんど)と改名し、家老職をつとめていました。
 ところが、まもなく渡部城主は三条の城主定明と戦して、渡部扇山城は落城し、城主や家老は命からがら東北に逃げのびました。当時、妻のお郷子は懐妊の身、一時に父と夫を失い、身の置きどころもなく、かろうじて野積村(現・三島郡寺泊町野積)に逃れました。しかし、もとより城主の娘のこと、何の仕事もできず、土地の人々の情けにすがり、塩釜の火たきを手伝いながら生計を立てていました。そうしているうちにいよいよ月が満ちて、9月9日、玉のような男の子を出産しました。9月9日は菊の節句なので、その名を菊千代と命名しました。この菊千代こそ後の川井彦左衛門で、村山地域開発の先駆者だったのです。
 母お郷子の一粒種の菊千代。しかも生まれながら誠に賢く立派に成長し、すでに16歳となりました。ある日、母にむかい、
 「われはいかなる者の子ですか。」
 と尋ねました。母はしばらく物も言わず、やがて涙を抑え、ようよう涙ながらに一部始終を物語りました。菊千代はこれを聞き、こぶしを握り涙まじりに、
 「今、母上の物語で承知しました。さてさて氏といい、系図といい、誰にも劣らない。このまま朽ち果てることは誠に口惜しい。一度は城主の幕下に就職し、扶持をもらい、功績の一端をもたてなければ、先祖、近くは祖父・父への忠孝を…と思いを決心し、私に10年の暇をください。この地(野積)は師と仰ぐ方もいません。佐渡は芸能に達した方もおられると聞いています。私は佐渡に渡り、勉強して帰国の上、宿願を果たしとうございます。」
 と顔色を変えて母親に頼みました。母もともに喜び、
 「佐渡に行くなら、扇山城繁栄の折り勤務していた佐藤弥五郎という者がいる。この者を訪ねてこの物語をいたし、私の子であると話すれば必ず力になってくれるであろう。」
 菊千代は喜び勇み、希望に燃えて佐渡に渡り、佐藤弥五郎の紹介等により10年間、諸芸に励みました。
 一方、一人野積に残った母は土地の人の薦めにより、糸魚川の浪人で寺泊に来て寺子屋を開き、土地の子どもの教育に勉めていた川井喜右衛門との再婚の話が起きました。なにぶん10年音信もない菊千代のこと、双方で熟議の上、これが決定をみました。
 帰村した菊千代は6尺4分、心身ともに立派な男に成長しました。そして母のこの間の事情を聞き、
 「我生まれてより父の顔を知らず、今父子となるは過去、世の深いご縁、実父に増す…。」
 と喜び、勇み、親子3人水魚のごとく交わり、この後、菊千代は氏を川井、名を彦左衛門と改めました。
 彼は、かねてより彌彦大明神を深く信仰し、百日の参詣をし、満参の日、神前に自ら舞を奉納していました。これが長岡城主のご代参、大田佐右衛門(おおたすけえもん)殿の眼にとまり、長岡城主に仕えることになり、領内麓村、藤右衛門(とうえもん)宅へ借家しました。
 そのころ、麓村と国上村の山境の争いが絶えませんでしたが、百姓一同ぜひとも山境の争いを解決してもらおうと、麓上奥右衛門屋敷(ふもとかみおくえもんやしき)へ転居してもらい、無事解決となりました。
 その後、数々の功績などにより、長岡御役所の免状を得て村山の開発に着手したということです。


イラスト 麓最後の瞽女おかつ(ふもとさいごのごぜおかつ)
 麓二区、近山利兵衛方の主婦おかつは生まれつき目の見えない人でした。終生独身で、瞽女となって生計を立てていました。
 勘が良く、毎朝鏡台に向かって自ら髪を結い、いつもきちんとした清楚な服装で、怜悧で温和、村人に親しまれた人でした。歌は元より、三味線のバチさばきには微妙な響きがありました。安倍保名(あべのやすな)「葛の葉」の子別れの曲など、聞こえていても妙音の間に何となく狐のなき声が聞こえてくるように感じられ、
    恋しくばたずね来みよ
       泉なる
     信田の森の恨み葛の葉
 かわいいわが子とどうしても別れねばならぬ葛の葉の悲痛な姿が目に見えるほどでした。
 かつて朋輩の瞽女と二人連れで三弦を担いで上州の草津まで旅稼ぎしました。ちょうどそのとき、草津へ稼ぎに行っていた村山の大工、三浦寅吉さんが見つけて、
 「おや、おかつではないか。目の不自由なお前たちがこの険阻な山奥の町までよく来ることができたな。」
 とほめました。
 おかつの住宅は、いつ訪ねても屋内も前庭も清掃が行き届き、整頓されてよい感じでした。雨の日には室の一隅に端座して三味線を弾き修練に励む姿を簾越しに見たものでした。


イラスト 北畠時定公の旧跡(きたばたけときさだこうのきゅうせき)
 永承6年(1051)陸奥の国の安倍貞任が朝廷に反乱を起こして、貞任の抵抗が12年も続いたことがありました(前九年の役)。その後も貞任の残党・黒鳥兵衛が反乱を繰り返したので、朝廷は北畠中納言時定公を越後に派遣したという言い伝えがあります。
 また、応徳元年〜2年(1084〜85)安倍貞任の重臣、黒鳥兵衛が下越後に乱入し、その鎮圧に弥彦の吉川宗方(桔梗城、現・西蒲原郡弥彦村)と、羽生田周防守(はにゅうだすおうのかみ 護摩堂城、現・南蒲原郡田上町)両城主が戦ったが、戦い利あらず敗走し、朝廷は北畠時定公を派遣した、とあります。
 また一説に、応徳2年8月、時定公都を出発、出雲崎着、9月野積の観音山と弥彦の猿ヶ馬場で合戦、10月麓村合戦で、時定公受傷、10日戦死してしまいました。そこでこの地に墓を建て、守本尊聖観音(まもりほんぞんしょうかんのん)を近くに安置したとあります。それが現在の観音寺だといわれます。
 戦死の地には時定公の精霊を葬って、石地蔵尊を安置しました。その場所は現在、観音寺から弥彦へ向かう旧北国街道の観音寺の小字六部塚(ろくぶづか)というところにあたります。そこにかつては老松が5・6本街道を跨いで生い茂っていたそうですが、今はその松もなく、地蔵尊も台座ばかりになってしまいました。


イラスト 観音寺温泉と観音さま(かんのんじおんせんとかんのんさま)
 観音寺温泉の歴史は古く、人皇72代白河天皇の御代、応徳元年(1084)の発見で、享保2年(1717)すでに御領へ納税し開湯しており、旧北国街道に人馬の往来が盛んであったころは、弥彦宿唯一の湯治場として繁盛したといわれます。
 なお、遊郭数個は観音寺久左衛門の支配に属し、弥彦参りの客の接待をしたものという古老の話もあります。
 観音寺の縁起を要約すると、
   龍岡山境の雅関風景は近傍卓絶の地なり、本尊は北畠中納言時定公護念仏で、
   戦地にも常に俸給し、尊像聖徳太子18歳の作なり、一度祈念すれば一つと
   して感応せざることなし、即ち水火の難に遭うことなく、怨賊のために害せ
   られず、反って投帰せしむ、
   男を求めんと欲すれば、福徳知恵の男を産し、女を求めんと欲すれば、端正
   有相にして愛嬌多き女を産する、
 とあります。
 なお、当国23番の霊地で、大正のころまで栄えたといいます。
 温泉関係には、黒鳥兵衛の乱に負傷した数多の将兵たちが、傷の治療に利用したのが観音寺温泉であるといわれています。



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