彌彦神社外苑弥彦公園の丘陵に御殿山(ごてんやま)と呼ばれる小高い頂きがあります。ここは昔「矢立山」といわれ、頂上に矢立神社があったと伝わります。 彌彦神社の御祭神天香山命が、三島郡野積浜に上陸され、猿ヶ馬場峠を越え、桜井の里にしばらく休息されて後に、弥彦の里に入られ、最初に宮居を定められた旧跡であると伝えられています。 一説に、昔はこの山を夷山(えびすやま)と呼んだとも言われますが、それは観応年間(1350〜1351)に夷人が彌彦神領に来襲した折、一夜のうちにこの山を占領して城を築き上げたためだといわれています。 ときに、彌彦神社の神官一同は神領民と力を合わせ、この夷人を討伐し、追い払いましたが、この戦にあたって神官の射放った矢が山の頂上に立った所に夷人討伐の記念として社を建てて彌彦大神を祀ったのが矢立神社・矢立明神であるといわれますが、今は昔の面影もありません。 現在の弥彦地内、矢楯・矢立と呼ばれる地名のおこりでしょうか。 この夷人来襲にあたって戦利品として奪った大刀が、現在彌彦神社に宝物として陳列されている「夷太刀」−大陸式直刀−でしょうか。 また、井田丘陵にある蝦夷塚(えぞづか)の岩屋と言われる地域は、このとき来襲した夷人を葬った墓地の旧跡であると伝わっていますが、楊子潟(ようじがた)埋立工事の際削り取られ、現在はほとんど跡をとどめていません。
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