弥彦の昔話

【湯神社(石薬師大明神)と弥彦温泉発祥の由来】(2/2頁)
 権九郎の話を聞いた村人たちは、さっそくわれもわれもと熊ヶ谷に押しかけ、先を争って入浴しました。話の通りのすばらしい効果に、たちまち湯の評判は広まり、しばしの間に熊ヶ谷一帯はにわかに開け、人家が立ち並び、「弥彦の霊泉」と遠近にその名声もひびいて、大層な賑わいを呈するようになりました。
 かくて、村人たちは彌彦神社の神官にお願いして、池の傍らの大岩を背に神社を建立し、お湯の神・薬の神・熊ヶ谷集落の守護神として大穴牟遅命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)二神をお祀り申し上げ、神社の名称も「湯神社」とお呼びして深い信仰を捧げ、弥彦霊泉はその後ますます発展しました。
 しかし、時代も移って数百年の後、自然とお湯の噴出も止まり、だんだんと人家も散じて徳川時代の始めにはすっかり集落もなくなり、わずかにこの湯脈のつながりでもあるのでしょうか、山裾の観音寺集落に霊泉の名残をとどめて現代に至っています。
 にもかかわらず、湯神社の信仰のみは、人家も絶え、集落が消滅しても尚変わりません。その後も神仏混交時代に一般民衆の名付けた「石薬師大明神」(謂われについては後述)の呼び名のもとに、特殊信仰は代々地方民衆の間に伝わって今日に至っています。

 この石薬師については、もう一つ伝説があり、明治時代に刊行された「温古之栞(第十四篇)」には、以下のような記述が載っております。『矢立の石薬師は、珍しい形の石を二個重ねて祀り、傍らに梨の古木が一本茂っていました。結実が多く、形は普通ですが、味が悪くて食用にはなりません。歯をわずらう人が、この奇石に梨を切ってお供えし祈念すると、たちまち治るといわれました。』
 今となっては、その石も梨の木も確認することはできませんが、元々は石が神座で、社殿は全くなかったので「石薬師様」と通称され、諸病に霊験があるほか、願い事は何でもかなえてくださるとして、庶民に信仰されました。人里離れた社寺なので弥彦の人々が参拝するくらいのものでありましたが、大正の中ごろから崇敬者の範囲も広がるようになりました。このころからか、石薬師様は「一尺様」と誤釈され、一尺の蛇の神様と信ずる人もあり、蛇の好む卵が奉納されるようになった時期もありました。たまたま参拝したとき裏山から蛇が現れると、恐れ、またありがたがる人もあるといいます。今日でも各地に信仰者があり、年間を通して参拝者が絶えません。

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